柳橋を会長に芸術協会誕生

  落語演芸会社も反会社派の軍門に降って関東大震災をいいしおに解散、震災で寄席の数も 減ったことだからお互いに仲よくやろうじゃないかと、三代目小さんを頭に小勝、三語楼、 文治ら、それに一竜斉貞山を客分に迎えた落語協会と、左楽を会長にする睦会とが相提携し て市内の寄席を分け合ったのですが、あるとき寄合いの席上で小勝と三語楼がけんかをして、 そのころの三語楼はというとそれまでだれも用いなかった落語のマクラに英語なんか入れて、 それが大衆に受けて人気がパッと出て来た時だったし、そのうえ弟子の金語楼が売れ出して 来ているので鼻っ柱が強い。こんなジジ捨山のような協会になんてだれがいてやるもんかと 金語楼を引連れて独立してしまったんです。
  たしかいまの圓生のお父っつぁんの先代の圓生もいっしょだったと思います。さてこうし た落語協会に離縁状をたたきつけて独立した三語楼ですが、やはり野におけレンゲ草ともで もいうのでしょうか、独立した後三語楼の人気はあんまりパッとしませんようで、といって も三語楼の人気が落ちたわけではなくて、金語楼の人気があんまり出すぎたので、師匠の三 語楼の影がどうしても薄れて来たというわけなんです。
  そこへ目をつけたのが牛込演芸場の席主千葉さんで、五代目(左楽)に話して柳橋を貸し てもらい、柳橋を会長に金語楼を副会長にして新たに協会を興し、これが今の芸術協会の誕 生なんです。
  大正六年に落語演芸会社のできました時の会社の統領は三代目小さん、そして反会社派の 統領は春風亭華柳と柳亭左楽、そして震災後にできた落語協会の会長が小さんから文治次に 文楽と変わって、芸術協会の方が柳橋と、生えぬきの三遊育ちは金馬、圓歌、圓生くらいの もので、累代とも柳派が会長のイスをしめているのはおもしろいと思います。
  前に申し上げました通り大震災後にできた落語協会の幹部の連名の中に客分として貞山の 名が加わっていますが、これは席亭であるわたしでさえ不思議に思うんですから、一般のお 客様はなおさら不思議にお思いになったにちがいありません。落語協会というからどんな下 ッパでも落語家なら納得いきますが、いくら客分でも講釈師が落語家の協会へ入って来るの は筋が違います。しかも三代目(小さん)が亡くなったあとは貞山が落語協会の会長になっ たんですからなおいけません。
  いまごろそんなことを言うのは証文の出しおくれですが、落語協会の会長になって落語の 方へ折る骨を本業の講談の方へ折ってくれたら、講談も今こそどうやら復興しましたが、一 時のようなあんなにまでさびれることはなかったと思います。ですからわたしはいつでも言 っているんですよ。あんなに盛んだった講釈場をツブしたのは貞山と伯鶴だって。   それは色物の間へはさまって十五分か二十分やってれば楽だろうし金にもなるでしょうが、 こういう大どこが本城の講釈場をおろそかにしたら、本城がツブれるのは当たり前です。こ れは今の落語界にも言えますがネ。

写真は当時の春風亭柳枝㊨と柳亭左楽