落語界中興の祖、すててこの圓遊

  圓朝の弟子に圓遊というのがあります。俗にすててこの圓遊。なかなか才知に富んだ人で 素噺(すばなし)のあとですててこを踊り、鉄道馬車だの、ニコライ堂を持ち出して、人情 ばなしを売りものの圓朝門下としてはまことに異端児で、圓朝の門からああいう芸人が出る ようになっては世ももう末だね、と心ある人を嘆かせたものですが、この圓遊ですよ、人情 ばなしとしての「船徳」や「野ざらし」をぶちこわしていまのように組み立てたのは・・・  いま文楽あたりのやっている「船徳」は圓遊のこしらえた「船徳」で、非難もありました が考えようによっては落語界中興の祖ともいっていいのではないでしょうか。
  圓遊の出現がきっかけとなって、それに続いて左楽の台頭、人によっては圓遊や左楽の芸 がウケるようではもう落語界も長いことないよなんて、まゆをひそめる向もありましたが、 しかしこれがきっかけになって、こんな落語家ばかりが出てきたら昔からの本格の話がなく なってしまう、本格落語保存の意味でっていうんで落語研究会が生まれた、というまあこう いう順序です。
  左楽といえば日露戦争後の明治三十八、九年から大正初期にかけての左楽、小南の人気な んてものはそれはそれは素晴らしいもので、毎晩五軒から九軒の掛け持ちで、もちろん今の ように自動車なんてものがないから人力車で、東京中の車宿へ声をかけて、脚のうんと早い 車夫がいたら給金はいくらでも出すから雇いたいなんて豪儀なことをいったもので、そのく らいですから左楽、小南と限らず人気のある芸人は実に我ままというか横暴というか勝手な ものでした。
  今のように高座へ上がる時間が決まっていないので、楽屋へ入るなり、これからまだ五軒 回らなくちゃならないからと、前から来ている芸人を飛越して高座へ上がってどんどん行っ てしまう。一枚でも上の芸人だとそんな勝手なまねをされても文句もいえないで、先へ来て いてあと回しにされちまうんです。ですから、人気のあるお目あてが、まだ客のあたま数の そろわないうちに草々と高座をすませて行ってしまうんですから、あとはミソっかすばかり で、それも高座を勤めるのはいい方で、ひどいのになるとバクチをしていて抜く(休演)な んか平気で、ひと晩に真打が七人も抜いたなんてことさえありました。
  銭湯でカマがこわれたんなら早仕舞ってこともありますが、今夜は真打が七人も休みまし たんで早仕舞いにしますなんて言えません。どうしたってきまった時間まではつながなきゃ ならないので、二ツ目だの、あんまりパッとしない連中がダラダラつないでいたんじゃ、席 亭側としたらお客様にめんぼくなくて、帰りの下足を揃えるのもきまりが悪いくらいです。
  こうした増長が芸人にだんだん強くなってきたので、これはいけない、こんなことしてい たら寄席は滅びてしまう、会社組織にして寄席が芸人を統率するだけの権威と力を持たなく ては・・・・というので岡鬼太郎、今村次郎先生なんかの力を拝借して落語演芸会社を興す 腹を決めました。大正六年のことです。

写真は三遊亭円遊