高座の布団に徳利を置いて

  人間がりこうになったとでもいうのか、当今ではあんまりケタのはずれた人がいなくなり ましたが、芸人だけはたまにはバカバカしい変わったのが出た方がいいと思いますね。特に 落語家なんかは、決して修身の先生じゃないんですからね。
  むかし圓遊の弟子に遊雀ってのがいて番頭の役もしていましたが、圓遊そのものが師匠の 圓朝から、圓遊なんてこんな弟子が自分の門下から出るようではもう世も末だといわれたほ どですから、その弟子に変わったのが出るのは当たり前ですが、この遊雀というはなしかは 「道灌」と「天災」と「元犬」の三つのほかは絶対にやらないはなしかで、その代り道灌な ど手に入ったもので、三十分でも四十分でもちっとも客をあきさせないというとんだ天災 …ではない天才ですが、その代りこの三つのはなしのほかはやりもしませんが、よし んばやったにしてもどうにもしようのないものでした。
  ですから仲間うちでは道灌遊雀と呼んでいましたが、実に奇人で、楽屋入りをするとまず 真っ先にネタ帳(同じ話が二度高座へ出ないために、落語家はその日の自分の噺の題を楽屋 備えつけの帳面へ書いておく)へ目を通して、前にだれかが道灌、天災、元犬の三つのどれ かしらをやっていると自分は高座へ上がらないで、でもワリ(給金)だけはちゃんと持って 帰ってしまう。これは道灌遊雀の公認になっていました。
  そうかと思うと先々代の春楽、これも変わっていましたね。人形町鈴本の席主というのが 腹はいいんだが口に毒のある人で、いちど芸人のいる前で、うちなんか人形町の目抜きの場 所なんで、高座へ徳利をのせとくだけでも客は来るといったらしいんですね。 これを春楽が覚えていて、その後何年かたって何かの都合で芸人の楽屋入りが遅れて楽屋に は春楽一人しきゃいません。ご存知の通りあとの芸人の顔が見えるまでは前の芸人がツナグ のが寄席の楽屋のおきてですが、そんなことおかまいなしに春楽は自分の高座だけすますと どこから探して来たか高座の布団の上へ徳利を一本のせて、どんどん帰っちまいました。
  これは少し変り過ぎてますが、三代目燕枝です。柳派の名門扇橋を父に持ち三味線なんか なかなか巧いもんでしたが、明治から大正へかけての浮世節の名人立花家橘之助の三味線を 借りて弾いて見て、おなじ三味線で橘之助と自分とではどうしてこうも音色がちがうのかと それ以来無常を感じて・・・・というわけでもないでしょうが、妙にグレちまって晩年はバ タ屋にまで落ち、浅草本願寺境内の掘立小屋に長くいましたが、最後は蟻の街でさびしく亡 くなりましたが、その死さえ何年かたってはじめて知れたほどでした。
  この燕枝が息を引取る数時間前に、燕枝という立派な名を汚して申訳ない、どうぞ燕枝の 系図の中から自分を抜いて、こんど燕枝になる人が三代目になってくれと遺言したそうです が、なんのことはない死んでから十代目を襲名した団十郎とは正反対の話です。

写真は若いころの橋之助とその下げビラ