火消しが木戸御免で因縁を

  わたしの父の妹というからわたしには叔母に当たるわけですが、この叔母が嫁に来ていた関係 から明治26年、わたしは13の時に鈴本亭へもらわれて来て、それからずっと65年間、寄席の 中で暮らしているんですから、体じゅう寄席のコケが生えているようなもんで、ずいぶんいろいろ と変わったこともありました。
  いちいち覚えていたらそれこそ大したものなんでしょうが、なにしろすっかりもうろくしちまって、 これといって一つもまとまったお話なんてできません。まあ思い出すまま、気のつくまま、明治中 期の話が出たかと思うと昭和時代の話になり、そうかと思うと大正時代になってまた明治へ逆戻 りしたりと、何が飛び出すかわかりませんが、まあ年寄りの寝言だと思召してお思召してお聞き 下されば、ありがたいしあわせです。
  まず自分の身近からお話しいたしますと、この鈴本亭という寄席ですが、のちに本郷や人形町 や小石川やなどに鈴本亭という寄席ができましたので、混同を避けるために上野鈴本と地名を つけましたが、元はただ単に鈴本亭と申しまして、ただいまとは反対側のマーケットのある場所 あたりにありました。
  水野越前守の例の天保の改革に、風俗矯正のため境町、葦屋町の芝居小屋が浅草に移され た時、いっしょに寄席もお取り潰しになりまして、それまで江戸には三十何軒からの寄席があり ましたが、それがたった八軒に減らされてしまいましたんだそうで、その八軒の中の一軒に加え られたんですから、まあ寄席としては格式のあったものなんでございましょう。
  でも客種はよくありませんでしたね。西町あたりに加賀鳶の残党みたいの火消しがどっさり住 んでいまして、夕方になるとゾロゾロ寄席へやって来ます。木戸銭ですか。とんでもない、そんな もの払うもんですか。いまでいう与太者のもう一つ始末の悪いやつですね。ただいまですと”顔” やなんかの無料入場は一切認めないことになっていまして、それを無理に入場しようとしてよん ど手に終えないときは、110番なんて非常手段もありますが、あのころは後難がおそろしいなん てこっちも意気地がありませんし、警察だってそんなことにいちいちかかりあっていないので、ま るで野放図です。
  もちろんそんなのは寄席を聞きに来るのが目的でなく、のみしろにありつこうというのがねらい なんですから、へでもないことに因縁をつけたり、腰にトビ口なんかぶち込んでいやがらせをい ったり、こっちでも他の客にさわるので早く帰ってもらおうといくらか包んで出すという始末で、い くど寄席なんてやめてしまおうと思ったかしれません。
  ですからあのころの寄席の経営者というと十中の八九までが仕事師とか遊び人とか、向うがい やがらせをいって来たら、こっちも腕っ節で応酬のできるような人が多く、われわれのような気の 弱い者がよく乗り切って、今日まで来られたものと、不思議に思うくらいです。

写真は上野鈴本席主・鈴木孝一郎氏